1950~2024年、田舎生まれの体験記など

アサリ掘り

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長靴を通して感じられる水が冷たかった。鍬で川底の砂を掘ると、薄茶色に水が濁った。しかし、あっという間に水は澄んで、掘った跡の川底や掘った砂をこずんだ部分も見えてきた。

「あっ! おった」

 しっかり口を閉ざし、貝殻の表面がきれいで生きていることが分かるアサリが見えた。よく見ると、一個ではなく数個が見える。冷たい水の中に手を入れて僕はアサリを採った。少し小さめのもいるが中くらいのが採れた。

 川底の砂には、片方だけしかない貝殻や口は閉じているが貝殻の表面が汚れている——

これで死んでいる貝だと分かる——貝もたくさんある。しかし、生きている貝は美しかった。場所を少しだけ上流に移してまた掘る。これの繰り返しだ。50個以上採れれば、上等なみそ汁ができる。母も喜ぶだろう。

この川——ダンべ川と呼んでいた川では、潮が引くと上流の汽水池の水が深さ5~10cm程度で流れ、掘った跡の濁りは直ぐにきれいになる。水は冷たいがアサリは掘りやすい。10m程度離れたところには、アサリ掘り名人の祖母の姿の他、近所のオバサン達の姿もあった。

アサリ掘りの名人だった祖母と孫(白い橋がダンべ川に架かっていた橋、下でアサリが獲れた)。

アサリ掘りの名人だった祖母と孫(白い橋がダンべ川に架かっていた橋、下でアサリが獲れた)

 僕の田舎の風物詩の一つだった。

小さい頃は、僕の田舎ではアサリはどこでも採れていたように思う。それでも大きくは二つの場所に分けられていた。一つは、海岸の砂地・潟地と石ころが混じっていたような場所である。こちらは熊手や鍬などの表面を少し掘ると、砂や泥で汚れた貝が出てくるのを見つけるやり方である。道具が貝に当たった感触や音から貝が見つけられることも多かった。これが一般的な方法と思われる。

もう一つ、特徴的な場所として、ダンべ川——この川は潮が引くと上流のタブと呼んでいた汽水の池の水や上流の山からの水が水深10㎝以下で流れていた幅5m程度の川——があった。ここでは、川底を鍬などで掘ると、最初は濁って何も見えないが、2~3秒間の内に流れで掘った跡がきれいに見えて、砂や泥のまったく付いていない貝殻が見えて採りやすかった。きれいな貝の姿が見えた時は、その様子が美しく今でも思い出すことができる。ただし、少し冷たいのを我慢する必要があった。なお、このダンべ川でのアサリ掘りは長くは行われなったと記憶する。掘るエリアが限られていたので掘り過ぎて少なくなってしまったと想像される。

アサリ掘りは、子供達にはあまり人気がなかったと思う。貝は小さいし、貝の見た目の派手さもなかったことが理由であろう。ただし、みそ汁にするともの凄く美味しいので大人達には人気があった。特にこのアサリ掘りの名人は、私の父方の祖母の「ダンべ川のばぁちゃん」——ばぁちゃんは長女のTおばさんの家で暮らしていたが、その家がダンべ川に架かっていた橋を渡った場所に在ったのでその家もダンべ川と呼んでいた——であった。

アサリの食べ方は、もっとも一般的だったみそ汁の他に、塩ゆでしたものを身だけ食べたり、時には貝殻のまま網の上で焼いたりした。この網焼きの時は、貝殻が開いたら醤油を垂らすのが普通にされていたと思うが、醤油がなくても海水の塩の味だけでも十分美味しかった。ただし、網焼きは父親が嫌っていて家ではやってもらえなかった。僕の田舎では、当時、赤痢が流行っていたようであり、父親は子供達が赤痢などに感染することを極端に恐れて絶対にさせなかった。ただし、時々、炭鉱住宅のMさん家族の家に遊びに行った時など、玄関先に七輪を出してアサリを網焼きにしたものをごちそうになることがあった。素晴らしい美味しさだった。

少し大きくなった後は、僕がアサリ掘りよりも、マテ貝掘り、ウノ貝掘り、シラ貝掘り、ハマグリ掘り、チュウチュウ貝採りを主にやるようになっていった。アサリは、マテ貝掘りやハマグリ掘りでも採れる時があったがわずかだったので家に持ち帰るのは少しだけだった。

アサリは、もっぱら「ダンべ川のばぁちゃん」から我が家はもらっていた。

 つい最近もアサリが居そうな砂地部分を何カ所が掘ったが見つからない。近所の人の話ではかなり前からアサリは採れなくなったそうだ。様々な開発の影響か、生活排水による昔みたいな栄養分の補給がなくなった影響か、原因は私には分からない。昔はあんなに採れていたのに。

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